大津皇子二上山墓





大津皇子は白村江の戦いのための663年に九州の那大津で生まれた。父は大海人皇子(天武)で、 母の大田皇女は中大兄皇子(天智)の皇女で鵜野讃良の姉。 天智天皇は大津宮で幼い大津皇子をたいそうかわいがったという。
「懐風藻」には、「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。 壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、 法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」
(体格や容姿が逞しく寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、 見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。 その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、 人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う多くの人々の信望を集めた)とある。
天武天皇の頃には鵜野讃良の皇子、草壁とともに政治に参加した。 天武が崩御すると翌月、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日自邸で自害した。 鵜野讃良の意志が働いたというのは通説である。
報せを聞いた妃の山辺皇女は、「髪を振り乱して裸足で走り、殉死した。それを見た者は皆嘆き悲しんだ」 (書紀)と記されている。
「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
鵜野讃良皇后は草壁皇子を直ちに即位させる事はしなかった。皇子の若さと大津皇子処刑に対する 宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。 皇位に就くことなく草壁は病死したため、 鵜野讃良は自ら即位した(持統天皇)。



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