天武・持統天皇陵





天武天皇(大海人皇子)は、古代最大の戦争、壬申の乱で兄・天智天皇の息子の大友皇子を破り、 飛鳥浄御原宮で即位する。
自身で懲りたからか、乱の前に出家していた吉野で諸皇子らに対して次期大王の順位 (1位草壁、2位大津)や、お互い助けて相争わない事を誓約させた。(吉野の盟約)

「淑(よ)き人の良しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」
 (万1-27 天武天皇)

地方豪族の軍事力で権力を奪取したことから、強大な権力で律令国家を目指した。 それまでは天孫の治天下大王であったが、天武のころに「大王(おおきみ)」から「天皇」と呼ばれるようになり神となった。

「大君(おほきみ)は、神にしませば、天雲の、雷(いかづち)の上に、廬(いほ)りせるかも」
(万3-235 柿本人麻呂)

皇后の鵜野讃良(うののさらら)は天智の娘。 686年の夫の没後は、姉の大田皇女(同じく天智の娘で天武の后)の皇子で書記にも 「人多く付託す」と讃えられていた大津皇子を謀反の嫌疑をかけて殺し、 自分の息子の草壁皇子を皇太子とした。

「うつそみの 人にあるわれや 明日よらは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む」
(万2-165 大伯(おおく)皇女)

しかし、草壁皇子は早世してしまったため、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位した。
この陵は古代の天皇陵としては珍しく治定に間違いがないとされる。
天武とともに夫婦合葬され、持統天皇は天皇としてはじめて火葬され、遺骨は銀の骨壺に収められていた。 しかし、1235年に盗掘にあった際に骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。



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